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最高裁判所第一小法廷 昭和34年(オ)901号 判決 1964年1月28日

主文

原判決中被控訴人その余の請求を棄却すとの部分及び訴訟費用に関する部分を破棄する。

右破棄にかかる部分につき本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人高木右門、同馬場正夫、同芦田直衛、同青柳盛雄、同松本才喜、同谷村直雄の上告理由一ないし七、及び同馬場正夫の上告理由第一点、第二点について。

上告人は医療を目的とする法人であるが、被上告人の判示行為により名誉を毀損され、因つて、財産上の損害ではないが、いわゆる、無形の損害を蒙つたから、これが賠償を求めるものであると主張する。しかし、わが民法においては、不法行為に基づく責任として、名誉毀損の場合につき裁判所において名誉を回復するに適当な処分を命ずることを得べき旨定めた外、原則として金銭賠償主義を採り、被害者が不法行為により蒙つた損害を不法行為者をして金銭をもつて賠償させることとしたのである。ところで、不法行為に因つて侵害される権利ないし利益は財産権の外、身体、自由、名誉等いろいろあるが、その侵害の結果生ずべき損害は物質的のものか、精神的のものか二者その一を出でない。物質的なものは金銭に見積ることができ、容易に金銭賠償の対象とすることができるが、精神的なものは金銭に見積ることができない。しかし、そのままこれを放置すべきでないから、加害者から被害者に相当な金銭の支払をなさしめて、せめてその精神上の苦痛を和らげてやるのが相当である。これ慰藉料と唱えられるところのものである。民法七一〇条が不法行為者に財産以外の損害に対しても、その賠償を命ずることができるとしたのは、その意味をうたつているのである。法人にはもとより、精神上の苦痛というものを考えることができないから、これに金銭でもつて賠償させるということはナンセンスである。法人が名誉を毀損された場合金銭賠償の対象としては、物質上の損害、すなわち財産上の損害しか考えることができないのである。すなわち法人は名誉毀損による無形の損害に対しては金銭賠償の請求をなし得ないものと解するを相当とする。

以上が所論の点に関する原判決の判断である。

しかしながら、民法七一〇条は、財産以外の損害に対しても、其賠償を為すことを要すと規定するだけで、その損害の内容を限定してはいない。すなわち、その文面は判示のようにいわゆる慰藉料を支払うことによつて、和らげられる精神上の苦痛だけを意味するものとは受けとり得ず、むしろすべての無形の損害を意味するものと読みとるべきである。従つて右法条を根拠として判示のように無形の損害即精神上の苦痛と解し、延いて法人には精神がないから、無形の損害はあり得ず、有形の損害すなわち財産上の損害に対する賠償以外に法人の名誉侵害の場合において民法七二三条による特別な方法が認められている外、何等の救済手段も認められていないものと論結するのは全くの謬見だと云わなければならない。

思うに、民法上のいわゆる損害とは、一口に云えば侵害行為がなかつたならば惹起しなかつたであろう状態(原状)を(a)とし、侵害行為によつて惹起されているところの現実の状態(現状)を(b)としa-b=xそのxを金銭で評価したものが損害である。そのうち、数理的に算定できるものが、有形の損害すなわち財産上の損害であり、その然らざるものが無形の損害である。しかしその無形の損害と雖も法律の上では金銭評価の途が全くとざされているわけのものではない。侵害行為の程度、加害者、被害者の年令資産その社会的環境等各般の情況を斟酌して右金銭の評価は可能である。その顕著な事例は判示にいうところの精神上の苦痛を和らげるであろうところの慰藉料支払の場合である。しかし、無形の損害に対する賠償はその場合以外にないものと考うべきではない。そもそも、民事責任の眼目とするところは損害の填補である。すなわち前段で示したa-b=xの方式におけるxを金銭でカヴァーするのが、損害賠償のねらいなのである。かく観ずるならば、被害者が自然人であろうと、いわゆる無形の損害が精神上の苦痛であろうと、何んであろうとかかわりないわけであり、判示のような法人の名誉権に対する侵害の場合たると否とを問うところではないのである。尤も法人の名誉侵害の場合には民法七二三条により特別の手段が講じられている。しかし、それは被害者救済の一応の手段であり、それが、損害填補のすべてではないのである。このことは民法七二三条の文理解釈からも容易に推論し得るところである。そこで、判示にいわゆる慰藉料の支払をもつて、和らげられるという無形の損害以外に、いつたい、どのような無形の損害があるかという難問に逢着するのであるが、それはあくまで純法律的観念であつて、前示のように金銭評価が可能であり、しかもその評価だけの金銭を支払うことが社会観念上至当と認められるところの損害の意味に帰するのである。それは恰も民法七〇九条の解釈に当つて侵害の対象となるものは有名権利でなくとも、侵害されることが社会通念上違法と認められる利益であれば足るという考え方と志向を同じうするものである。

以上を要約すれば、法人の名誉権侵害の場合は金銭評価の可能な無形の損害の発生すること必ずしも絶無ではなく、そのような損害は加害者をして金銭でもつて賠償させるのを社会観念上至当とすべきであり、この場合は民法七二三条に被害者救済の格段な方法が規定されているとの故をもつて、金銭賠償を否定することはできないということに帰結する。

果してそうだとすれば、原判決は判示の事実関係のもとで、被上告人の侵害行為に因り上告人の名誉を毀損されたと云いながら、上告人には法人であるの故を以て無形の損害の発生するの余地がないものとし、上告人の本訴金員の請求を一就し去つたのは、原判決に影響を及ぼすこと明らかな重要な法律に違背した違法ありというを憚らないものであつて、論旨は結局理由あるに帰し、原判決は到底破棄を免れない。

よつて、民訴四〇七条一項に従い裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 入江俊郎 裁判官 斉藤朔郎 裁判官 長部謹吾)

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